使信 2016.07.31


<2016年7月31日使信「愛―神から生まれた者の掟」>
聖書:ヨハネの手紙Ⅰ5章1節-5節石井智恵美

このことから明らかなように、私たちが神を愛し、その掟を守る
ときはいつも、神の子供たちを愛します。(ヨハネの手紙Ⅰ 5章2節)

【夏の花】


先週、衝撃的な事件、相模原での重度障がい者施設で障がいを持った 19人が犠牲となった事件が起こりました。多くの人が受け止めかねています。障がいを持った人への憎悪、あるいは「優性思想」-優れたものは生き残り、劣ったものは淘汰されるべきという思想―による殺人の正当化、これが実際に私たちの生きる場所で起こってしまいました。このような悪に対して、私たちはどのように立ち向かい、何を基準に判断をしてゆけばよいでしょうか。本日の聖書個所には「悪の世に打ち勝つ信仰」との小見出しがあります。「悪の世に打ち勝つ信仰」を、共に聖書の言葉から考えてみたいと思います。

■格差社会の生んだ歪み

相模原の事件の容疑者は「重度障がい者は安楽死させた方がいい」と語ったといいます。誰が生きる価値があり、誰にないか、そんなことを決めることができるのは誰なのですか。すべての命に尊厳があります、だからこそ、社会福祉の働きが障がいを負った人、病を負った人々を援助する、そのことを現代に生きる私たちは選んできています。だいいち、誰がいつそのような立場になるかわからないのですから、これらの制度は私たち自身を守るものです。しかし、競争社会の中で、すべての命が尊いという価値観は、持ちにくくなっているのかもしれません。業績をあげ実力を示せる優秀な者だけが尊重され、そうでない人は、価値の低い人に位置づけられるという、格差社会は古代からあります。現在では。人の価値はみな等しいという価値観は共有されています。しかし、真の意味でこの価値観を共有することは骨が折れます。難しいのです。むしろ、これを否定する方が、正義のように思える、そんな歪みをもった時代の中で起こったのが、今回の事件であると思えるのです。その代表は、ヒトラーですが、自分とは異なる世界にいると信じる他者の抹殺、ユダヤ人、障がい者、社会主義者、同性愛者などのホロコースト(大量虐殺)を彼は実行しました。「抹殺してよい命だから抹殺する」それは、2重の意味での人間の否定です。その人のかけがえのない価値を否定するだけではなく、自分中心の価値観によって他者の生物としての命をも奪ってしまうのです。

■ホロコーストにつながる闇

しかし、その犯罪の原因を、犯人の特殊な心のゆがみにだけ求めてよいのでしょうか。ナチスのホロコーストにつながる人間の中に巣くう恐ろしい闇であると思います。人間はそういうことができてしまうのです。私の尊敬する恩師がアウシュビッツを訪れた時に、そのあまりの惨状にショックを受けながら、心の最も深い所で「あ、私ならやるな」と思ったそうです。自分が他者をガス室送りにする、というのではなく、他者のガス室送りを命じられたら、いやいやながらでもその状況の中では、命令にしたがってしまうだろう、という意味です。私たちはそのことを普段どこまで自覚しているでしょうか。心の奥底にそのような深い悪を抱えているのが人間という存在であることにどこまで自覚的であるでしょうか。そのことを今回の事件であらためて突きつけられた気がしています。他者の抹殺という根源悪が私たちの中に巣くっている。そのことを自覚している人は、たやすく悪の暴走には巻き込まれないでしょう。そのことがまた、問われていると感じました。

■最首悟さんのインタビュー

最首悟さん(和光大学名誉教授)のインタビューを東京新聞の特集記事で読みました。かつて東大全共闘時代に助手として真摯に全共闘運動を担った人です。現在は重度の障がいを持つ娘の星子さんの親として、障がいを持った人たちの居場所つくりをしています。星子さんは「あー」と発声しますが、言葉を話せず、8歳で視力も失ったそうです。食事も自分では噛むことができずに丸のみで、もちろん排せつの始末も一人ではできません。「植木鉢の花と同じで2日も世話をしないと死んでしまう。夫婦で旅行もできない」「この子が死んだら、どんなに楽になるかと思うことがある。だが、命のついて考えを深めてこられたのは、この子のおかげだと感謝している自分もいる。その両方は離せない。」「ただ、この子がいなければと思っても、殺すという一線は越えられない。それは『命は地球より重い』からではない。命には、他の命を食べる残酷さもある。結局、命はわからないし、手に負えないもの。『いのちはいのち』でしかない。そんな事実がうめき続ける自分をとどめている」と語っておられました。

■「いのちはわからないし、手に負えないもの」

「結局、命はわからないし、手に負えないもの」このいのちへの示唆、表現には、障がいを持った星子さんに向き合う中で生まれてきたかけがえいのない重さがあります。この自覚が、私たちにどれだけ実感としてあるでしょうか。遺伝子操作や、代理母出産などの出現で、現代人はどこかで、命はわかりえる、操作しえるもの、という傲慢を育てていないでしょうか。あるいは、ゲームの仮想現実と現実の区別がつかなくなっている恐ろしさと私たちは隣合わせです。いのちはわからないし、手に負えない、だからこそ、かけがえがない、という畏怖の感覚を、私たちは知らずに生きているのではないでしょうか。いのちをわからないままに受け止めて、共に生きてゆく、神から与えられたものとして。イエスの中にあったのは、そのような命への連帯ではなかったでしょうか。同時代の、特に病んだ人、貧しい人、疎外された人々のところにおもむいて共に生きようとしたイエス。インマヌエルー神はわれらと共にいますーこのことを、伝え続けたそのイエスを、キリストと信じる人は、「神から生まれた者」である、と今日の聖書は告げているのです。そしてその神から生まれた者の掟は、愛なのです。

■「悪の世に勝つ信仰」

悪の世に打ち勝つ信仰―信仰は、イエスをキリストとして信じる、ということだけを言っているのではありません。私たちが今、神から与えられているいのちを、わからないままにも受け止めて、それを精一杯生きているか、という信仰の内実のことです。そのシン
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プルな生きる姿勢こそが、私たちの中に巣くう根源悪を食い止めるものではないでしょうか。ご飯を食べ、からだを動かし、自然の恵みを感じ、家族や友人と親しく交わり、疲れたら眠るーそのシンプルな繰り返しの中に、宿っている神の働き。そのことに感謝するときに、わたしたちは無限の力に包まれます。神の愛が私たちに注がれて、わたしたちを生かし続けていることが分かるからです。神が共にいますことを、具体的な生き方で示し続けたイエスをキリスト(救い主)として生きてゆくなら、私たちは愛の業を行うようにうながされます。神の掟は難しいものではない、と今日の聖書が語っているように、イエス・キリストの生き方を見習ってゆけばよいのです。キリストはすでにこの世に打ち勝たれた。だから、わたしたちも安心して、キリストにおいて愛の業を行ってゆけばよいのです。

■愛という力に立ち帰る

あまりにも痛ましい事件に、犠牲者を思う悲しみは消えませんが、このような出来事を二度と許さない、そのためには、憎しみではなく、キリストが示した愛に立ち帰ること、私たちの中に神様から与えられた愛という力があること、そこに立ち帰ること、そこから始めたいと願います。悪の世に打ち勝つ信仰を与えたまえ、と祈りながら。犠牲となった方々のため、悲しみの内にあるご家族、関係者の方々のために祈りを捧げます。また、容疑者の回心のためにも心から祈ります。