映画『神々と男たち』を見て

 先日、王禅寺家庭集会で『神々と男たち』という映画を見ました。1996年にアルジェリアで実際に起きた、イスラム過激派によるフランス人修道士誘拐事件を題材にして、2010年カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した秀作です。戦前からアルジェリアの小さな村に移住し、医療活動や農作業などでイスラムである村人と共に生きて来た修道院ですが、イスラム過激派が外国人を殺害する事件が周辺で起こり始めます。身の危険が迫り、苦悩する修道士たちのところへフランス政府からも帰国命令が出され、村の警察署長からも「君達を尊敬している。頼むから帰国してくれ」と言われます。修道院長のクリスチャンは、コーランを熟読し、地道な宗教対話に努めて来た人でした。人道的な活動をしている彼らに対しても、身の危険が迫って来たのです。「生きるためにここに来た。死ぬためではない」という議論も交わされる中、彼らは苦渋の決断を下します。村人と共に生きること、この村にとどまることを決断するのです。圧巻は、ミサの後、無言で食事をしながら、食事当番の修道士がかけた音楽「白鳥の湖」を聴く場面。無言で目と目とを見かわしあいながら、来るべき悲劇を予感しつつ、人々への愛、神への愛に満たされて、涙ながらに互いの決意を確認するシーンに胸がつまりました。人は究極の決断を何によって行うのでしょうか。信仰者は当然、信仰においてと答えるでしょう。しかし、実際に身の危険が迫り、理不尽な死が迫っている時に、動揺しないはずがありません。彼らは大きく揺れながらも、知性を精一杯働かせ、信仰において熟慮し決断してゆくのです。そのプロセスこそがこの映画の見どころです。その後、修道院はイスラム過激派に襲撃され、修道士たちは誘拐され、フランス政府に身代金を要求する人質として使われ、最後に殺害されます。修道院長の遺書が実際に残されていて、その言葉がまた胸を打ちました。「私はこの国の人々に注がれる軽蔑を知っている」と、植民地支配の過酷な歴史を知るゆえに、この地の人々と共に生きることを選んだ思いがつづられていました。そして「イエスの死も、また死後すぐに忘れられた。他の暴力的な死と一緒だ」と、まるで自分たちの死を暗示するかのように。このイスラム教の村人とも共に生きようとした彼らの軌跡は、人間の対話の可能性を示していてくれています。人はここまで寛容に優しく、しかも強くなれるのだと。悲劇ではありますが希望が残る生き方を示してくれたのです。同様の暴力による日本人人質事件がいまだに解決しないままですが、後藤さんの無事を祈るばかりです。(このエッセイを書いた時点で、後藤進二さんの殺害の情報は入っていませんでした。後藤さん、湯川さんの魂が神の御元で安らかに憩わんことを祈ります。)